変わり者の悪あがき。

毎日を、つらつらと。

神社でたこ焼きを頂いた話。

  

 先日ふと、神社に行きたいナァ、と思ったので休日に散歩がてら近所の神さまに「どうかこのめんどくさがりの私にしあわせを運んでくだされ、ぐえっへっへ」とノーリスクハイリターンなお参りをしに行くことになったお話をしようと思う。

 

そもそも私は神社が好きである。なんで好きなの、と言われると具体的なエピソードや思い入れが無いのでうーん、と答えに詰まってしまうのだが、私は神社のまったりとした雰囲気や涼しげで爽やかな、少し哀愁漂うあの表情が好きなのだ。もちろん夏のお祭りや正月で人がにぎわっている神社も好きなのだが、だらだらな生活を送っている私にとっては静かなほうが落ち着くのだ。

 

さて、いざ神社に向かい、お参りをしておみくじを引いた後、特にやることがあるわけでもなく来たので手持ち無沙汰になってしまったのだが、ふと目をやるとなんだか屋台のようなものが連なっているではないか。なかなかに広い神社なので最初は気が付かなかったが、どうやらバザールのようなものが開催されているらしい。おおっ、コレは良いじゃないか、さっそくお参りの効果が現れたよ、神さまはキザだねぇ、と感謝しつつ回ってみることにした。

 

店を見てみるとお手製のはちみつや有機農法で作られたくだものジュース、木彫りのフクロウのキーホルダーなど、オモシロイ商品が並んでいる。ここで1つキーホルダーでも買ったやろうか、と思ったが、いつも欲望のままに買い物をしてしまい整理が出来ず、部屋にモノが溢れて泣く泣く年末に断捨離してしまう事を思い出し、なんとかフクロウを買うのを踏みとどまった。そもそも雑貨というのはお店にキレイに並んでいるから魅力的に感じるのだ。部屋に持って帰っても数日もすると「あぁ、何故コレを買ってしまったのだろう」となってしまうのだ。私はこれを修学旅行で木刀を買って後悔するアレになぞって「木刀ガッカリの法則」という名前をつけている。

 

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↑木刀ガッカリの法則。木刀を買って盛り上がるのは長くて1時間である。

 

さて、一通り店を見ている中で小腹が空いてきた事に気付いた私はなにか食べたいと屋台を探していたのだが、「たこ焼き」のカンバンを見た瞬間、吸い寄せられるように向かい「たこ焼きおひとつくださいな」と軽快なリズムで注文をした。たこ焼きは偉大だ。小腹が空いても大腹が空いても、なんならオナカが空いていなくてもたこ焼きであれば私の食欲を満たしてくれる。お好み焼きでももんじゃでもない。たこ焼きなのだ。過言ではないくらいたこ焼きには信用金庫よろしく並みに信頼を寄せているのだが、なにやらお店のお姉さんは困った顔をしている。聞けばすでにたこ焼きは売り切れていて今から、新しく作るのは出来ないとのこと。

 

 

あァ、そうか。私のたこ焼きに対する熱い想いはこんなにも無常なものなのか。いつだったか子供の頃母に「ゲームが欲しい!アレが無ければオレは死んでしまうんだーっ!」と涙の訴えをしたときに母が「うるさいっ、ウチはウチ、よそはよそなのよっ、早くお風呂入って寝なさいっ!」とつっぱねられた事を思い出しながら、じゃあ別の店にいこうか、とあの頃のたこ焼きに対する熱い想いが無かったかのようにとなりの美味しそうなフランクフルトにウワキをしようとした時だった。

 

「これ、良かったら食べてください」

 

なんとお姉さんの手には美味しそうなたこ焼きがのっているではないか。なぁんだ、あるんじゃないのよ、とお金を渡そうとすると「冷めているのでお代はけっこうです。どうぞ貰ってください」と言うではないか。「イヤイヤ、冷めていてもたこ焼きはたこ焼きですヨ。どうぞお代を受け取ってくださいまし」といっても本当にいらないとのこと。せっかくこういってくれているのだから、あまり強引にお代を渡すのも無粋なのかな、とご好意に甘えてそれを受け取った。

 

近くのベンチに座りお目当てのたこ焼きをもぐもぐ食べたのだが、確かにお姉さんがいっていた通りたこ焼きは冷めていた。しかしなぜそのたこ焼きが冷めていたのか私は知っている。それはお姉さんがお店を終えた後に自分で食べようと思って取っておいたものだったからだ。それを今、私が食べているのだ。その事実を知りながら食べるたこ焼きは冷えた生地とは裏腹に温かいぬくもりを感じるものであった。

 

春の暖かさの中でまったりとした時間の中、ぬくもりのたこ焼きを大好きな神社で食べたことを私はときどき思い出すだろう。

 

追記

Twitterを始めました。

アカウントのURLを貼る方法がまだ分からないのでお手数ですが@kawamogaで検索してください。

是非フォローして頂くと、私が大喜び致します!笑

 

 

 

 

 

 

 

お気に入りは、カルボナーラ。

 

みなさん、料理はした事があるだろうか。

昨今では女性だけでなく男性も料理が出来る事がポイントになるらしいではないか。休日のおでかけ前やお家デートでちゃちゃっとご飯を作ることが出来ればモテモテ間違いなしであろう。「男の胃袋を掴む」という言葉はもはや昔のもので今はサプライズ、という名義で男性が女性に食卓を飾るのだ。

そう考えてみると女性は自分や家族の為に料理をする生活感に溢れたものであるのに対して、男性のそれは明らかに「趣味」や「特技」といった、衣食住という暮らしのサイクルに必ずしも当てはまっていないものなのだ、ということに気がついた。

 

何故それに気がついたのか。私が料理をする理由が「お腹がすいたから」ではなく「楽しいから」だからである。

 

私は料理が好きである。子供の頃母に教わった出汁巻から始まり、今では大抵のものは感覚で作れるくらいの腕前になった。

 

しかし前述の通り私が料理をする中で最も大きい理由が「楽しいから」という感情で成り立っている以上、料理へのこだわりが爆発してしまうのに長く時間はかからなかった。

 

カルボナーラはお好きだろうか?

濃厚なソースと絡めて食べるパスタは絶品で、パスタなんてものは麺を茹でてタネと合わせるだけなのでお気軽に作れてしまうのだ。

 

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↑こだわりが詰まったお手製カルボナーラ。手前味噌だが、なかなかに絶品である。

 

この「お気軽」が非常に良くないのだ。

勉強は長く続かないし、新しい事に挑戦してもいつも3日坊主の私が、何故かこのカルボナーラに対する情熱だけは雲を突き抜け大気圏に達するほどぐんぐんと湧き上がってくるのだ。

 

具体的には、オリーブオイルの量はこれくらいだとか、ベーコンの焼き具合はあれくらいだとか、麺はフィットチーネであるべきだとか、牛乳と生クリームを1:1で割るのがベストだとか、だからローマ風のカルボナーラは認めない、だとか。(決してローマをけなしているのではない。というか、ローマがどこにあるのかを私は知らない。知り合いでもないローマ人の料理にけちをつける私は全くけしからんヤツである。)

 

 

こだわり始めたらキリがないし、作ったものは食べなければいけないので、あれやこれやと試行錯誤しているうちに3日連続でカルボナーラをすすることになったあの時の私はきっとカルボナーラに取り憑かれていたのだろう。

 

しかしカルボナーラの霊がついに振り向いてくれたのか、あるいはあれだけ作っているのだから当然の事なのか、おかげで私はことカルボナーラに関してはかなり上手く作れるようになった。カルボナーラ検定なるものがあるとすれば間違いなく1級を取れるくらいの自信がある。まぁそんなものはないのだが。

 

それだけ上手く作れるのだから、じゃあ他の料理も相当なものなのでしょう?と思う人もいるかもしれないが、そんな事はない。私は料理研究家ではない。カルボナーラ研究家なのだ。カルボナーラしか愛せないのだ。だから、カルボナーラ以外は並みのものしか作れない。何故あの頃あんなにカルボナーラに入れ込んだのはついには私にも分からない。

 

 

 

全く私は変わり者である。

やっぱり私は変わってる。

 

 みなさんの周りに変わっている人はいないだろうか。

 

どんな料理にもとにかく一味を大量にかけないと気が済まない人とか、2週間一切外に出ずに家でゴロゴロ出来る人とか、恋人の誕生日祝いのメールに返信せずに激怒されそのまま振ってしまう人とか、周りが就職活動に勤しんでいる中急にブログを始める人とか。

 

私の事である。

 

思い返してみると私はある意味ものすごい才能をもっているんじゃないかと思うほどトリッキーな人生を歩んで来た。それは「あんたみたいなトラブルメーカー、お母さん知らないよっ」と母親に言わせしめた小学2年生から始まっていたのだろう。

 

子供の頃はそれが「面白いヤツ」と見られていて私が行く所には多くの人が集まってくるものだったが、歳を重ね周りが常識を学んで行く中でそれが面白さではなく「人と違う」と認識されることはごく自然の事であると今ならば思うが、当時の私はどの駄菓子が一番アタリ易いのかを考える事に全身全霊を注いでいたのだった。因みに結論としてヤッターメンというベビースターのようなお菓子が一番のハイリターン商品だと確信したのち、それならばチキンラーメンを買って食べた方がいいんじゃね?と周りがチョコやクッキーを食べている中公園でボリボリとそれを貪っていたのだが、つまり巷で一時期話題になっていた「0秒チキンラーメン」なるものは1人の無垢な小学生が考案したものだと声を大にして言いたい。その卓越したアイデアと創造性を有していたスティーブ・ジョブズもお手上げの当時の私に一言言いたい。「頼むから黙ってうまい棒を食べておくれ」と…。

 

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↑子供の頃ずっと買っていたヤッターメン。大当たりが100円だった事は当時の私には衝撃的であった。

 

 

私が生きている以上、私や私の周りには常軌を逸しているモノに溢れて満ち満ちているのだろう。そんな日常の「変わっている」を見逃さずに拾い、ポケットにしまい、それをブログにつらつらと記そうと思う。